会員の声(ブログ)

八ヶ岳jomon楽会 会員の声ブログ

                                          吉田 怜子
 平成26年、秋田、青森方面に研修旅行に行くと聞いて、身の程(年齢・素養等)もわきまえず、ぜひ行ってみたいと入会させていただきました。私が縄文に興味を持ったのは、帰郷したばかりの平成2年秋、当時公民館まつりといっていた米沢の地区行事で、「縄文のビーナス」を一目見て、「何?これ?」と、正にド胆を抜かれた思いでした。それが契機で、市内各所の遺跡現地説明会と聞けば覗きに行き、資料や写真が目につけば手当たり次第に集め、それまで知らなかった世界に惹き込まれていきました。
 『さっき「縄文のビーナス」が国宝に指定されるってラジオで聞いたよ』と、パート仲間に聞いたのは、職場を早退し、その足で小学校の新入職員歓迎会に参加の直前。地区選出の矢島市議は挨拶で、少々オーバーに米沢自慢をし、「ビーナス出土の地」とぶち上げました。私はつい先程聞いたばかりで、確信は持てないものの、議員にだけは一刻も早く知らせたいとヤキモキ。近寄って背後から耳元に囁いたのです。と、着席したばかりだった議員は、やおら立ち上がって「えー、只今お聞きしたところによりますと・・・」と大きな声で披露してしまったではありませんか。途端に「ウォーッ」という大歓声と、どよめきと、大拍手。会場は大興奮の場となってしまいました。こんな騒ぎが、私の又聞きで間違いだったらと、家に帰って電話で長野日報に確かめるまでの不安といったら、生きた心地がしませんでした。平成7年4月14日のことでした。

 そして、平成22年、尖石縄文考古館は検定制度を始めました。ただの物好きの私が果たして通用するものか試してみようと受験。上級の時は76才。受験者中最高齢。生涯で最後の試験にしたいと思ったものです。
 その後、考古館では学芸員の方が、月1回夜9時10時までも館内展示物など詳しく説明して下さった勉強会が続き、それがどれ程有難いことだったかと、今も心から感謝しています。

 そんな折、東北旅行の話を耳にしたのです。平成22年大英博物館帰りの国宝土偶を上野の国立博物館で見てきてはいましたが、国の3つの特別史跡のうち尖石しか知らない私が東北の二つをこの足で歩き、この目で見られる機会はおそらくもうないだろうと思っての入会だったのです。それと、実は私は幼児から小学校4年生まで、青森と八戸の中間に位置する野辺地町で過ごしたこと。もう一つは50年前の教え子が八戸に嫁いでいましたので、ぜひ会ってみたいと思ったのも大きな理由でした。
 その年の秋は北信巡り。八ヶ岳周辺しか知らない私は、人骨のないのは当たり前くらいの感覚でしたから、北村遺跡の人骨、高山村の抱石人骨の実物には興味をそそられ、果てしなく深く広い未知の世界を実感いたしました。
 そして平成27年は北陸のチカモリや、能登半島真脇遺跡を見学。共同で入り江に追い込んだイルカを捕獲して食べていたと知り、海と山との縄文人の対象を想像する楽しさも知りました。
 バスの中での会田先生のお話も印象的です。風穴の里から安房トンネルを飛騨側に抜けながら、明治大正昭和と、野麦峠を越えて岡谷に働きに来た糸取工女にまつわる話。脚色されすぎた「哀史」をちょっぴり批判された口調。その時とは別の機会でしたが、現在に通ずる「もの作り」の気風、実績など。少々身贔屓かなと思える程、先生ならではの郷土愛あふれるお話。また土器の粘土に混じって塗込められた豆の圧痕を研究中のお話など、興味深くてたまりません。
 そして今年は若狭三方五湖へ。「私達は石器文化から土器文化へ直結しているような気でいるが、間に木器文化の発達もあるのを忘れてはならない。」との一言にハッとしました。
 縄文のタイムカプセルと言われる鳥浜貝塚、世界の奇蹟、7万年のものさしと言われる水月湖の年稿については、山本様、野崎様の詳しく確かな論旨と、みずみずしい筆致の感想を早々とホームページで拝見いたしました。単なる物好きの私の表現すべきことなど、皆無です。ともあれ、最高のお天気に恵まれ、見るもの、聞くものがすべて目新しい、ワクワクするような2日間でした。
 
 さて、ここからは縄文とは別の、私だけのこだわりの雑感ですが、一読していただければ幸いです。
第一日目の目的の見学を終えて、バスはレインボーラインを梅丈岳山頂公園へと上りカーブを繰り返します。多少傾いてきた日射しの当り加減で、山側の崖に密生して光る濃い緑色の葉っぱに、ハッとしました。「椿」です。時期ではないので、花はありませんでしたが、高い雑木の腰丈あたりまで椿の光る葉が、バスの上るにつれて、上へ上へと帯のように伸びて続きます。若狭、椿・・・直木賞作家「水上勉」と連想が繋がりました。実は昭和50年代、私は水上作品の、それも小説より随想ものにより興味を覚え読みあさった時期がありました。彼は、寒村の貧しい棺桶大工の二男に生まれ、9才で口減らしに京都の寺へ小僧に出されます。得度は済ませたものの、辛抱できずに脱出。別の寺へ。立命館大学夜学部を結局は中退。還俗。満州で就職。程なく結核に患り療養のため帰国。徴兵検査は丙種。東京に出たり戻ったり。分教場で助教をしたり。召集令が下り馬2頭の世話係。敗戦。再び上京といった当て所のない暮らしが続き、42才、「雁の寺」で直木賞をもらって世に出るまでの苦労は並大抵ではなかったようです。
幼い日に故郷を離れたための望郷の念からか、「若狭」「若狭」を繰り返し、村の土葬の共同墓地、さんまい谷に近い、竹藪に囲まれて日当たりの悪い家での貧しい暮らしを「これでもか」「これでもか」とばかりに綴っています。葬式で掘り下げた墓穴の底には「椿」の根がびっしりと敷き詰めたように土を這い尽くしていたという描写には、私が自分でその深い穴を覗いて見てしまったようなショックを受けました。園芸店の鉢植え等で見るだけだった、紅く厚ぼったい花びらの椿の地下の根に蓄えられた力の凄さを知ったのです。「これだ!」私は崖に続く椿の群生を見ながら自分に言い聞かせていました。

 ついでにもう一つ。ボロ買いの朝鮮人「金さん」の話です。水上の出生地は三方五湖の西が小浜市、更にその西に続く隣町、原発のいくつもある大飯町です。元小浜城主酒井家の末裔が一年生の賢い子に「酒井家賞」という褒美、金一封と半紙二帖をくれたそうです。京都には「若狭の子を貰うなら、小僧に貰うなら「酒井家賞の子を!」という目安があって、彼が9才の時、京都の寺に小僧に行くことになったのです。京都に行けば学問をすることができる。中学へも入れてもらえる。将来は立派な僧侶にもなれるという前途があったらです。その時、父親が仮設住宅を建てて縁のあった金さんが餞別に紙に包んだ小さなかたまりをくれ、そっと開いて見ると50銭玉が入っていたのでびっくり。酒井家賞と同じ位だったようです。貧しい者のやさしさに子どもながらに胸が熱くなったとか。その金さんが父親を呼ぶ時、「ミスカミさん」という場面がありました。私はそこで初めて「ミナカミ」ではなく「ミズカミ」なのだと気付きました。調べてみると、作者紹介欄は両方まちまち。中学校の教科書は「ミナカミ」でした。
 その頃私は、松本に住んでいましたが、塩尻に彼の講演会があるのを知り、聴きに行きました。今ではもうテーマも内容も忘れてしまいましたが、帰りに出口でサイン会をしていましたので、思い切ってこの件を質問してみました。彼はニヤリとして、
「どこの出版社かね?」
「東京書籍ですが・・・。」
「けしからんね。」
答はそれだけでした。以来40年。今回の旅行のあと、茅野の図書館で「椿の根」の記述を確かめたいと手にした「植木鉢の土」(03年 小学館)に自ら「みずかみ」としっかり名乗っている所が見つかりました。最後に抜粋させていただきます。
 実は水上勉にはもっと世間を賑わせたドラマチックな1件があります。有名な「戦没画学生の作品を収集、展示している上田の「無言館」館主・窪島誠一郎氏が長年「父親探し」の結果、水上勉であったと判明するいきさつですが、これは又、機会があったら・・・ということにさせていただきます。

 今回の旅行中、お土産としては幻に終わりましたが、高速SAで食べた「焼鯖ずし」の味を何とか再現したいと、目下挑戦中です。
おかげ様で、八ヶ岳JOMON楽会に参加させていただき、文字通りたっぷりと縄文を楽しむことができ、心から感謝しております。ありがとうございました。



 水上勉著 「植木鉢の土」(2003年 小学館)よりの抜粋
 わたしの名は、「みずかみつとむ」である。ところが、東京に出てきたとき、皆が皆「みなかみ」さんと呼んだ。水上(みなかみ)温泉(おんせん)が群馬にあるからか、関東の人たちには、水上はみなかみでしかなかった。そして、わたしはいつのまにか、自分でも知らないところで「みなかみつとむ」になった。自分ではずっと「みずかみ」のつもりなのだが。
 


                                           神尾 明

東京生まれで東京育ちの私が定年退職後に原村へIターンしたのはなぜなのか? 地元の人に良く聞かれます「何でこんな寒い所に来たんだね?」、と。「なんとなく信州が好きだから」、と答えるしかありません。事実、若い頃から信州は肌に合っていて、木曽、開田高原やマイカー規制の無かった頃の上高地や乗鞍などへ良く行っていました。強いて言えば、それらしき「縁」もありました。一つには、祖母が松本生まれだったこと。もう一つは、小学生の時に、諏訪マチ子、藤森耕三と言う信州にゆかりがありそうな名前の先生がいて、忘れられない思い出があるのです。諏訪先生は若くてボーイッシュなきれいな方で、「わが身をつねって人の痛さを知れ」と教えてくれました。「二十四の瞳」の大石先生のようなとても良い先生でした。対して藤森先生は(長野生まれだと言っていた)、えこひいきするとても嫌な先生で、私やその当時の悪童にとっては嫌われ者でした。ある日、授業中に後ろの席から私の背中をつつく悪童がいて後ろを振り向くと、いきなり脳天に衝撃が走りました。藤森先生がつまんだチョークを私の頭の上にガツンと振り下ろしたのです。チョークの欠けらがボロボロ落ちて涙が出ました。その痛さと屈辱感と誤解された悔しさからで、子供心にとても傷つきました。フジモリコウゾウという名前は50年以上経った今でも忘れません。諏訪に来て初めて藤森栄一の名前を知った時、フジモリコウゾウを思い出して苦笑してしまいました。

さて本題は、同じ藤森姓でも藤森英二さんの新刊本の紹介です。
藤森栄一のお孫さんで北相木村考古博物館に勤められている若き考古学者の藤森英二さんが、「信州の縄文時代が実はすごかったという本」という本を、信濃毎日新聞社から3月に発刊されました。縄文初級で万年入門者の私が読んで、とてもわかりやすいと思いました。信州から関東西部にかけての縄文中期の文化を戸沢充則は「井戸尻文化」と唱えていて、この本の著者は、その井戸尻文化圏の特に八ヶ岳を中心にした縄文中期の文化について、平易な言葉で解説しています。中高生なら入門書として、上級者なら最近の研究成果を含め自分の知識を再確認する意味で役に立つと思われます。尖石考古館でも販売されています。

税込2160円で、全ページ写真・図解入りなのでコストがかかっていると思われます。専門書にありがちな小難しい用語や言い回しが無く、構成も的確です。特に中高生にはこの夏休みに読んでみたらいかがでしょうか。巻末には八ヶ岳周辺の縄文遺跡・考古館巡りのガイドも載っています。
専門知識に疎い私ですが、この本で感じたことは、
1.ロマンあふれる解説が楽しいし、文章が巧み。さすが祖父のDNA でしょうか。
2.老考古学者の中には物事を見てきたように断定してしまう人がいてびっくりしますが、この著者はそんなことはもちろんしないし、人の意見は意見として尊重して扱っています。
3.端的で親しみやすい見出しがとても効果的。
4.新聞社の発行らしく特に句点の使い方が的確。だから読みやすい。(句点は本来とても重要なのですが、その使い方は学校ではあまり教えないし、文筆家・小説家でさえいい加減な人が少なくないです。)
5.巻末あとがきの、最後の文が泣かせますよ。

以 上


水月湖のほとりで


水月湖のほとりで 2017年6月14日

「八ヶ岳jomon楽会の若狭と近江を巡る旅」に参加した。目的地は若狭三方縄文博物館。ここには鳥浜貝塚の考古遺物が展示されている。鳥浜貝塚といえば、縄文通なら誰でも知っている“縄文のタイムカプセル”と呼ばれる遺跡だ。1962年、河川敷の改修工事で見つかった遺跡なので、保存状態が極めて良く、大型の丸木舟、縄や編み物の断片、赤い漆塗りの櫛などの漆製品、エゴマ、ひょうたん、シカ、フナなどの動植物遺体と糞石などの発見があった。「縄文時代は石器時代」というそれまでの観念は、この遺跡で覆された。木を巧い、漆使い、植物管理をしていた縄文時代という、新しい縄文文化解明の先駆けとなった遺跡である。三内丸山遺跡などの大型縄文遺跡発見は、鳥浜貝塚より後のことになる。

八ヶ岳山麓富士見町に引っ越してきた考古学好きの私は、縄文時代の遺跡密集地域のど真ん中に住んでいることにふと気づき、縄文時代の勉強を始めた。そして富士見町図書館で最初に手に取った縄文文化に関する本が、哲学者梅原猛編の『縄文人の世界観』だった。その本で環境考古学者安田喜憲を知り、鳥浜貝塚を知った。そして当時、梅原猛が館長をしていた三方町縄文博物館へ出かけたので、今回の鳥浜貝塚行きは2度目となる。今では、「若狭三方縄文博物館」と名前が変わり、展示方法も一段と進化していた。

2度目の鳥浜貝塚はさておき、今回、私の最大の目的は水月湖畔の宿に泊まることだった。湖畔の宿に憧れた訳ではない。水月湖という湖に憧れていた。

水月湖は福井県若狭地方にある三方五湖(三方湖、水月湖、菅湖、久々子湖、日向湖)の一つで、五湖のうち最大面積の湖である。五湖はそれぞれ淡水、汽水、海水と水質(塩分濃度)が違うのと水深の違いから、五色の湖と言われている。

素晴らしい天気に恵まれたその日、梅丈岳の頂上庭園展望台からは三方五湖が見渡され、日本海も光っていた。西の展望台の足下には水月湖が広がり、その日の宿、「水月花」が見えた。宿へは樹林の上を投げたカワラケのように、駆け下りて行けば直ぐ着くような気がする近さだった。水月湖を眺めながらも、湖のそばに早く行きたいと焦った。

水月湖はどうして私を捉えて離さないのか。それは、環境考古学者安田喜憲の研究から始まる。安田喜憲は、発見されたばかりの鳥浜貝塚を環境考古学的アプローチで研究しようと三方湖底をボーリング掘削し、堆積物に含まれる植物の化石や花粉を調べることで、縄文時代の気候変動を復元した。

安田喜憲の研究は、鳥浜貝塚から始まり、日本海側の環境復元のスタンダードを確率したが、さらに精度の高い堆積物資料を得るために水月湖に着目した。三方湖底のボーリングコア(円柱状の資料)には河川流入の影響があったが、水月湖には河川の流入がなく、水深も30mと深いのでボーリング調査をしたところ、細かい縞模様がボーリングコアの全体に見ることができた。水月湖は周囲をほどほどの高さの山に囲まれ、風が吹き荒れることはないので波は立たない。流入する河川もないし、すり鉢状で水深は深く、湖底は汽水で重く、湖面上層部は淡水と分かれている。そのため、湖底は無酸素状態なのでミミズやゴカイなどにかき乱されることはない。しかも三方断層のおかげで湖は少しずつ沈み、埋まらない湖なのだ。そのような好条件のため、地層の縞はくっきりと見え、微細な堆積物の分析ができた。

英語ではこの縞を「varve」と言い、氷河地帯など高緯度地帯では知られていたが、温暖な地帯では研究はされていなかった。日本語にないvarveはスエーデン語の「繰り返し、輪廻」を意味するvarvからきている。varveを日本語で「年縞」と名付けた人は、水月湖の基盤まで掘削する決断した安田喜憲であり、私の尊敬する環境考古学者、その人である。安田喜憲はいう。「この美しい縞模様は、美しい日本の四季が生み出したものだ」と。美しい縞模様を作った日本の風土、日本を誇らしく思わなくてはならない。

年縞堆積物は、過去の環境変化を詳細に復元する目的で使われるものだった。しかし、安田喜憲の助手だった北川浩之はそれだけには終わらせず、地質学的な時間を測る「ものさし」を水月湖の年縞で作ろうと分析を始めた。1枚が1mmもないほどの薄い年縞には、1年分の膨大な情報が詰まっていた。その中の樹木の葉の化石のC14年代を測定すれば、年縞との組み合わせで正確なキャリブレーション(換算法)データが得られる。紆余曲折20年余という時間と、日欧の強い国際協力のもと、水月湖は2013年9月に考古学や地質学での年代測定の世界標準となった。この「世界のものさし」水月湖の年縞は、現在の世界標準時計グリニッジ天文台に対して、過去の世界標準時計と言うことができる。

水月湖のボーリング調査を決断した環境考古学者、7万年分の年毎の縞を数え、分析した学者たちの努力を、この湖は黙って見ていただけだし、今だって静かに沈黙しているだけだ。安田喜憲と中川毅、北川浩之の師弟による研究と欧州の研究機関との連携プレーで、水月湖の年縞が世界一精密な年代目盛り、世界標準となった。その経緯を、本を読んで追っていた私のワクワクを、同行の仲間の誰も知らない。部屋から、大浴場から、レストランから湖面を眺めていた私のことを、私のセンチメンタルな想いを無視するかのように、湖はさざ波も立てず、静かに湖面を輝かせていた。なにせ7万年のひとときのことなのだから。

参考文献:安田喜憲「一万年前」(イースト・プレス)、中川毅「時を刻む湖」(岩波科学ライブラリー)、森川昌和「鳥浜貝塚」 (未來社)

2018年には若狭三方縄文博物館の隣りに水月湖の展示施設が開館する予定。現在は福井県里山里海湖研究所にて年縞を展示し、解説している。
記:山本 郁子


水月湖底の時の縞

                                          野崎 順子

今回の研修旅行のお宿は、三方五湖の1つである水月湖畔の水月花。目の前に広がる水月湖はどこまでも静かで穏やか、周囲の山々を正確に映し出す鏡のような湖面が印象的です。と、ここまではその湖底に眠る「もの」を知る前ならば、水月湖を見たときの普通の感想だったかもしれません。

当初訪問予定だった福井県立若狭歴史博物館が休館で、その代わりに隣接する福井里山里海湖研究所に寄りました。そして、そこで少し、いや私にとってはかなり衝撃的な映像を見ました。水月湖の湖底の泥に細長い筒をさしてから抜き、その筒を縦に割るときれいな細い縞模様をもつ泥が現れました。これを「年縞」と呼ぶそうです。初めて聞くことば、そして文字でした。土や木の葉、花粉などの有機物、そして火山灰や時には大陸から飛んできた黄砂などの鉱物質が、それぞれ明るい層と暗い層をつくり、その明暗の1対が1年をかけて縞模様をつくっていくというものでした。1年でできるそれらの堆積物の層は、平均が0.7mmという薄さ。筒によるボーリング調査で出てきた縞模様、つまり年縞は45mまでは明確に見ることができ、その最後の縞模様は、なんと7万年前のものだそうです。日本列島に人類がわたってくる以前、旧石器時代よりもずっとずっと前のことです。きれいな縞模様は、7万年にわたる時の流れが、まさに目に見える「形」となったもので、自然の成した偉業?にとても驚きました。

水月湖は、直接流れ込む大きな河川もなく、湖の深い部分は酸素がないため生物も生息できないなどの好条件が揃ったことで、湖水や湖底がかき乱されることなく、長年にわたってこのような縞模様が堆積されてきたそうです。この年縞を調査することで、過去の気候などの自然環境や、堆積状況からは地震や洪水などの履歴もわかるそうで、その変化を年単位で細かく知るための、まさに泥のものさしです。さらに驚くことには、この水月湖年縞が、放射性炭素による年代測定法で基準となる炭素14の量を正確に把握するための、地質学的年代の世界標準に決定されたということでした。この日本列島の片隅にある小さな湖の底で眠っている泥が、なんと世界で最も正確な年代測定標準となっていると知り、その泥に拍手を送りたい気持ちになりました。

年縞に衝撃を受けた研究所のあとは、快晴に誘われて、三方五湖をとりまく切り立った山のような地形を縫って走るレインボーラインをたどり、五湖を見渡せる山頂公園へのリフトに乗りました。山頂公園から見ると、鳥浜貝塚のある三方湖は、深緑色の藻のようなものが浮いている様子で濁っていましたが、隣の水月湖は青く澄み、吸い込まれそうな湖面で、隣合う湖の対照的な様相が一目瞭然でした。湖水がかき混ぜられることがないという縞模様形成の絶対条件をもつ水月湖であると、それを見て改めて納得しました。

海からせりあがる急峻な山々と、それに囲まれた水質の異なる五つの湖をもつ若狭の地は、縄文人にとっては、里山、そして湖や海から、さまざまな自然の恵みを手に入れることができる、まさにパラダイスだったと思います。若狭三方縄文博物館で目にした丸木舟遺物は、生活に欠かせない湖海の糧を得るために、そして隣のムラに行くために、水の上を移動する手段を考え抜いた縄文人の叡智の結晶だと思いました。
鳥浜貝塚は、草創期から生活の痕がみられ、前期には湖畔に定住し貝塚は湖の中に形成されたそうです。この貝塚から発見された丸木舟は2艘。年縞の明暗1層が約0.7mmの薄さとしてざっと計算すると、上から約4m50cmあたりが縄文時代前期の始まりにあたります。45mの長さからすると、たったの約10分の1。でも、その4m50cmは、丸木舟の発明もひとつに数えられる人類の知恵と工夫がぎっしりと詰まった歴史の長さで、そう思うと今度は人類に拍手したくなりました。4m50cm下の縞模様は、丸木舟で行き交っていた縄文人の姿を湖底から追っていたのだなと思いながら、私も当時の生活の様子を思い描いてみました。

旅行2日目の朝、陽に輝く水月湖面は、やっぱり前日と変わらない静けさをたたえていました。でもその湖底には、とてつもないものが眠っている。そう思って改めて湖を振り返ると、なぜか湖面が静かにザワザワと騒いでいるように感じました。

旅の面白さのひとつは「発見」することで、今回の縄文旅行も新発見の連続でした。また当初予定にはなかった場所を見学する機会を得て、「思わぬ」発見にもたくさん出会えました。年縞はもちろん、展示に実物大が多く体感する楽しさを教えてくれた琵琶湖博物館も、またいつか再訪したい場所です。

今回も、すばらしい旅行を立案、企画、催行してくださった皆さま、お世話になりました。
次回も、今からかなり期待しています。
ありがとうございました。
感想文が、縄文とは少しかけ離れてしまいました。


藤森栄一を読んで

                                           神尾 明

考古学の概念さえ頭になかった私がこの会に設立当初から加わったきっかけは、黒耀石です。元々自然観察が趣味で、2011年に原村の八ヶ岳自然文化園が自然観察会の一環として黒耀石採掘現場の見学会を主催し、それに参加したことが縄文考古学に触れた始まりです。黒耀石が何なのかも知らずその見学会に参加したのですが、いつもの自然観察会とは違う人たちがたくさん参加していて、私にはちょっと異質な雰囲気が感じられました。黒耀石を知ることが無かったならば、会の皆さんと出会うことは無かったし、藤森栄一の偉大さも知らずにいたわけで、誠に不思議な縁です。

色々な趣味を楽しんでいる私ですが、その観察会以降、何をどう間違ったかこの会の行事に参加し続けています。どうやらその目的は、Iターン者の私が、諏訪ひいては信州の歴史や地理・文化などを知ることができるからなのでしょう。ビーナスラインは知っていても縄文のビーナスを知らなかった位に考古学の知識も興味もなかったのですが、会田会長の講座などを聴講しているうちにさまざまな知識を得ることができ、地域の考古学にも少し興味がわいてきました。

前置きが長くなりました。本題は、藤森栄一の本のことです。
この会の皆さんや考古学に興味のある多くの方は彼の本を読んでおられるでしょう。私は遅ればせながら一昨年から興味を持ち始めました。会員の牛山晴幸さんから「かもしかみち」をお借りしたのですが、半分も読み進めずに挫折。その理由は、文庫本のように印刷文字が小さくて読みにくいことと、専門的すぎて難しい部分があったからです。1年位後、意を決して図書館で「かもしかみち」を借り読破しました。その後は「心の灯」、「遥かなる信濃」、「蓼科の土笛」を立て続けに読みました。考古学の知識をはじめ、藤森栄一のひととなりやその壮絶な人生と人間関係、諏訪の歴史・地理・昔の産業と文化など色々なことを知ることができました。いずれも短編の随筆や旅行記を編集したもので、中には専門的な難しい章がありますがそこは斜め読みもしくはパスすることが読み進むためのコツかな、と思います。これら4冊を選んだ理由は題名の響きが素敵だから、です。藤森栄一は豊かな知識を持つだけでなく素晴らしく文才に長け、世が世ならば彼の随筆はもっと評価されたと思います。村上春樹などより随筆の文才は優れていてかつ平易だと、私は思います。どの本も絶版ですが、諏訪地域の図書館には蔵書されています。まだ読まれていない方は、まず「かもしかみち」を読んでみたらいかがですか? 

彼の本の中から名文をほんの一部引用します。
・深山の奥には今も野獣たちの歩む人知れぬ路がある。ただひたすら高きへと高きへと、それは人々の知らぬけはしい路である。私の考古学の仕事はちょうどそうした、かもしかみちにも似ている。(「かもしかみち」より原文のまま。)
・若さというものは心に灯をともせるたった一度のチャンスである。(「心の灯」より。)


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