八ヶ岳山麓 縄文文化の魅力

HOME > 八ヶ岳山麓 縄文文化の魅力 > 諏訪の考古学―その2

3 八ヶ岳山麓と諏訪湖周辺の縄文文化の展開


縄文文化の定着、雑木林にかこまれた生活環境

 赤岳を最高峰(標高2899m)とする八ヶ岳は、裾野は標高800mから1400mの広大な高原状地帯を形成していた。一面に広がる落葉樹林の森、そこにはナラ・クリの雑木林が広がっていた。中でも南部に当たる富士見・原・茅野の区域は山梨県側の山麓も含め、ここに縄文中期を中心とした華やかな縄文文化が繁栄した。
 諏訪湖は中央構造線ができた後、糸静線(糸魚川―静岡構造線)の横ズレ断層によってできたとされ、人類が行き交うころは、ほぼ今のような諏訪湖が出来上がっていたとされる。沖積平野の広がる湖北やその山麓には八ヶ岳同様に雑木林がいっぱいに広がっていた。


大規模集落の形成

 原村阿久遺跡は縄文時代前期というやや古い時期の大集落遺跡である。浅い谷を両側にもつ長い尾根あるいは長峰と呼ばれる幅200mほどの火山灰台地に立地する。200×150mの範囲に円形の竪穴式住居跡、方形に配置された掘立柱建物跡、さらに墓穴と見られる小さな穴や集石(小児頭大から拳大の小さな河原転石で穴を埋めたり覆う)が120mのドーナツ状(幅30〜40mの環状)に群集する。
 これは住居群と一体化した群集墓と考えられ、国内ではこの時期の最大級の規模の広さを誇っていると見られている。遺跡を埋め尽くす集石の中心付近には、長さ120cm、厚さ35cmという花崗閃緑岩の角柱と、大きな板状の安山岩8枚を回廊状に立てた配石遺構がつくられていたことから、特別な信仰の場、祭りの場として考えられている。


縄文中期の発展

 八ヶ岳山麓では、中期になると大規模集落が尾根を連ねて並ぶようになる。富士見町藤内遺跡、井戸尻遺跡、曾利遺跡、原村阿久遺跡、大石遺跡、居沢尾根遺跡、上前尾根遺跡、茅野市の尖石遺跡、駒形遺跡、棚畑遺跡、中ッ原遺跡、上の段遺跡など挙げればきりがない。一方諏訪湖周辺の諏訪市では荒神山遺跡、岡谷市では梨久保遺跡、広畑遺跡、海戸遺跡、目切遺跡といったような大規模遺跡が多い。このうち前期の阿久、中期の井戸尻・尖石・駒形・梨久保、後期の上の段も含め六箇所の縄文時代遺跡が国史跡に指定されていることからも、諏訪地域に縄文の大遺跡が集中する様がうかがい知れようか。

 諏訪の地域に特色ある縄文時代文化が花開いた証はいくつかある。一つは遺跡の増減で測ることができる。また大規模集落の出現も見逃すことができない現象である。諏訪地方ばかりではなく中部山岳地域はおしなべて中期になると遺跡の数と規模が格段に大きくなる。
 もう一つ大きな目安がある。遺跡からはおびただしい量の縄文土器が出土することである。それも一つ一つ個性的で、地域的特色を持ち、優美な文様を持つ。この縄文土器は八ヶ岳山麓及びその周辺には、他地域を圧倒する量があり、質量とも群を抜いている。しかもそれらは芸術性豊で、世界の原始美術大系の中でも最も芸術的で、自由奔放にして精緻な土器文様として高い評価を得ている。


ページの先頭へ